家畜のアニマルウェルフェア

家畜のアニマルウェルフェア

家畜のアニマルウェルフェアを考える時、現在の家畜がどんな風に飼育されているかを知らずにはスタートできません。少し耳の痛い、そして心が痛む話になりますが、知っておくと自分の食の安全性にもつながる話です。

日本は卵の消費量が1位のメキシコに次いで世界第2位となり、一人あたり年間約340個を食べている計算になります(参考記事)。そして日本で卵を産む鶏たちのほとんどが、「バタリーケージ」と呼ばれるケージで飼育されています。

バタリーケージ(参考資料)は窓があるも、窓がないものなど異なるタイプがありますが、共通しているのはとにかく狭いこと。鶏1羽につきB5サイズ1枚分(iPad1台分)のスペースしかありません。今はコロナで「密」が病気感染のもとであることがさかんに言われますが、鶏や他の家畜も同様に、狭い空間で病気になることが多くなり、このことだけでも、アニマルウェルフェアの基本である5つの自由に反しています。

 

「仏教だから」は違う

家畜の苦しみを減らすこと。これまで書いてきた通り、これはかわいそうとか動物がかわいいと思う人だけの問題ではなく、人間として倫理的な(=エシカルな)行いであることがわかります。つまり、「人に危害を加えてはいけない」という倫理的な考えの延長上にあることなのです。特に家畜の場合には彼らの命に関わることでもあり、「日本人は仏教的な世界観を持っているから西洋的なアニマルウェルフェアの導入は難しい」という反論は少し的外れであることがわかります。5つの自由はある程度まで生物学的・生態学的な考え方に基づいて作成された概念で、生き物を考える上でとても基本的なことばかりです。

じゃあ動物を食べるなということ?

「じゃあ動物を食べるなということ?」という声も聞こえてきますが、これも含め、特に家畜のアニマルウェルフェアはとても難しい問題です。もちろん、社会全体において苦しみは少ない方がいいのですが(ピーターシンガーは「功利主義」という考えに基づいて動物解放を提唱しました)、そうでなくとも家畜のアニマルウェルフェアを確保することは、食肉や乳製品・卵の価格にもちろん反映されます。現在 iPad1台分しか鶏に与えられないスペースを彼らが自然に動きまわれるようなスペースに広げると、当然「生産性」は落ちることになり、それは価格に反映されます。

悩んでいい、今の自分にとってできることを

こうしたことは、個人の生き方やチョイスに関わってくることであり、一人ひとりがそれぞれに悩んで今のベストな選択を決めていくことになりますが(これについて悩んだというメンバーが書いたこちらの記事を読んでみてください)、今はプラント・ベースの食べ物が増えてきましたし、将来的にはカルチャー・ミートなど、お肉に代わる食べ物でも十分満足できる日もそう遠くないかもしれません。もちろんこれは、お肉が好き、という人の場合です。そうでない方は、プラント・ベースやヴィーガンレシピをゲーム感覚で楽しんでみる(犬と楽しむレシピはこちら)、そんなところから始めてみるのはどうでしょうか?

ただしプラント・ベースも完全にギルト・フリーではありません(牛肉と並んで大豆は森林減少の原因のトップ5に入ります)。そう考えると、食べるという日常の行為をもっとマインドフルに、そのおおもとまでたどっていくと、世界も広がるかもしれません。例えばすでに鶏のケージフリーを宣言している企業もいます。スターバックス、イケア、ネスレなど日本でもおなじみの企業です(欧米のみで日本ではそれを導入していない企業もありますが、消費者としてそれを選択していくことで、企業側もそれを増やしていく、ということはよくあります。目くじらたてず、「ヴィーガンにはなれない」とはねつけず、今の自分には家畜の幸せという観点からどんなゲームが向いていそうか、考えてみませんか?

 

 

 

 

 

 

アニマルウェルフェア - どうして家畜が苦しんでいると分かるのか?

アニマルウェルフェア - どうして家畜が苦しんでいると分かるのか?

アニマルウェルフェアの歴史

アニマルウェルフェアの歴史をたどると、人間の動物への残虐あるいは配慮に欠ける扱いから生まれたことがわかります。古くは古代ギリシャ文明の哲学者たちにまで遡れます。神々と共存すると考えられまだまだ混沌としていた世界で、人間とはどのような存在か、そして植物は、動物はどうか、そんなことも議論されたことが文献に残っています。

そして18世紀ごろまでは西洋文明では人間が動物を支配する、というような考え方が主流で、ローマのコロッセオなどで行われていた動物の残虐な扱いは、動物を単なる物質的な存在とみなそうとしていたことを反映しています。

「家畜は 使用や食糧のために」

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「植物は食糧として[動物]のために存し、他の 動物は人間のために存し、そのうち家畜は 使用や食糧のために…」という考えを持っていたとされ、これはユダヤキリスト教にも受け継がれたと考えられています。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。 海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべ てを支配せよ。」という『創世記』にある言葉はその一つの例だと言われています。

「動物は機械である」

最も有名なのは、17世紀のフランスの哲学者デカルトの、「動物は機械である」という言葉です。デカルトの時代には動物の生体解剖がしきりと行われ、それを正当化するためであったとも言われています(ただしデカルトが本当にそう考えていたかどうかは疑問視されています)。この「動物は機械である」という言葉は、人間の動物への残虐な(あるいは配慮に欠ける)扱いが社会的には主流の考えであり最高潮に達していたことの象徴的存在でもあると考えられています。

問題は「彼らは苦しむことができるか」

つまり、長い歴史の中での動物への扱いが人道的でなかったこと、こうしたことへの反論としてアニマルウェルフェアは発展してきました。古くは同じくギリシャ時代から、アッシジの聖フランシスの考えに代表されるようにキリスト教などに受け継がれてきた動物への配慮の考えは脈々と受け継がれてきましたが、現代のアニマルウェルフェアにつながる考えが最初に出てきたのが18世紀です。今でも使われるのはジェレミー・ベンサムという啓蒙学者の以下の言葉です。

問題は、彼らが思考できるか、ということで も、彼らが話せるか、ということでもなくて、 彼らは苦しむことができるか、ということである。

ここで、「動物が苦しむかどうか、どうやってわかるのか?」「証拠はない」という声も聞こえてきます。ところが、人間を振り返ってみると、隣にいる人が身体的にあるいは精神的に苦しんでいるかどうか、私たちはどうやってわかるのでしょうか?自分以外の人の場合、直接そう伝えられたのでない限りそれは表情やしぐさなどからの推測に過ぎません。痛い「だろうな」と直感的に感じてきたわけですが、現代では脳内の物質(例えばストレスを感じると出るコルチゾールなど)から、苦痛を感じるかどうかがある程度まで科学的に立証できるようになっています。

ストレスを受けると出る脳内物質コルチゾール

これを動物に当てはめても同じです。彼らのしぐさや動きから人間はある程度、直感的に恐怖や痛みを感じていることを推測できます。犬や猫と(理解しようとする意図をもって)一緒に暮らす人には簡単なことでしょう。家畜の場合にも、ケージ内で他の鶏をつついたりする、牛や豚が通常とは違う大きな鳴き声を出す、など多くのサインがあります。そして動物の場合にも、人間と同じく現代では代表的にはコルチゾールの分泌量などからも、彼らが「苦しんでいる」ことがわかるようになってきたのです。

「アニマルウェルフェア」って何ですか?

「アニマルウェルフェア」って何ですか?

動物の「幸せ」

アニマルウェルフェアは、日本語では動物福祉と訳されます。「福祉」という言葉を辞書でひくと「幸せ」「幸福」などの言葉が出てきますから、簡単に言うと動物の幸せ、ということです。

動物にとっての幸せとは何か?これはとても難しい質問です。なぜなら、何がその動物にとって幸福な状態かは、生態学的・生物学的に理解しようとする姿勢が必要だからです。例えば家庭犬にとっての幸せは空腹や苦痛がない状態で飼い主と一緒にいること、猫にとっては同じく空腹や苦痛がない状態ですが必ずしもいつも飼い主と一緒にいなくても自由にテリトリーを動き回れること、のようにそれぞれの種によって異なります。

「5つの自由」- 家畜のアニマルウェルフェアから

ただ、すべての動物(人間も含めて)に共通する考え方として、「5つの自由」というものがあります(コラム)。1960年代のイギリス政府が作った専門家の委員会から出てきた考え方で、もとは家畜のウェルフェアに配慮しようという動きから生まれました。現在では、動物保護団体などにも支持されて広く知られています。

また、家畜のウェルフェアでいうと市民レベルでアニマルウェルフェアの動き自体が広まるきっかけとなった本があります。1970年代半ばにピーター・シンガーという哲学者が書いた『動物の解放』という本で、世界中で広く読まれ2009年に改訂版が出されています。本では鶏・豚・牛などの家畜が産業畜産によって狭い場所で劣悪な状態で飼育されていることが指摘され、ベジタリアンやヴィーガンのムーブメントに火がつきました。

家畜の場合、「最終的には食べる目的なのだから」という声も聞こえてきますが、だからと言ってその間に何の配慮もしないことは、人間の倫理や品性に関わることでもある、というのが家畜のアニマルウェルフェアです。ですから最後の屠殺の時にも、できるだけ苦しまない方法で、ということになります。もちろん、それを初めから避けたいという理由でヴィーガンやベジタリアンになる人もいます。

「動物が好きな人だけが考えればいいこと」ではない

誤解のないように書き足しておくと、この本は「動物はかわいいから、かわいそうだから」きちんと世話してあげよう、という考えで書かれてはいません。人間の管理下にあって自分たちには選択権のない存在、しかも痛みや苦しみを感じる存在を何の配慮もなく扱うことは倫理に反する、という考え方です。

このように、アニマルウェルフェアは人間が自分の管理下に置く(場合によってはそれ以上の範囲の)動物たちに対して彼らの幸せにも配慮する義務を負っている、という考えから来ているので、「動物が好きな人だけが考えればいいこと」ではないのです。例えばEUなどでアニマルウェルフェアが法律や政策にきちんと組み込まれているのは、アニマルウェルフェアは人間社会全体の課題と捉えられるから、と言えるでしょう。

近代までは神道や「山川草木悉皆成仏」という言葉に表されている通り仏教的な世界観に根差してきた日本社会で、アニマルウェルフェアがどう浸透していくか、今後の発展が注目されますね。