アニマルウェルフェアの歴史

アニマルウェルフェアの歴史をたどると、人間の動物への残虐あるいは配慮に欠ける扱いから生まれたことがわかります。古くは古代ギリシャ文明の哲学者たちにまで遡れます。神々と共存すると考えられまだまだ混沌としていた世界で、人間とはどのような存在か、そして植物は、動物はどうか、そんなことも議論されたことが文献に残っています。

そして18世紀ごろまでは西洋文明では人間が動物を支配する、というような考え方が主流で、ローマのコロッセオなどで行われていた動物の残虐な扱いは、動物を単なる物質的な存在とみなそうとしていたことを反映しています。

「家畜は 使用や食糧のために」

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「植物は食糧として[動物]のために存し、他の 動物は人間のために存し、そのうち家畜は 使用や食糧のために…」という考えを持っていたとされ、これはユダヤキリスト教にも受け継がれたと考えられています。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。 海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべ てを支配せよ。」という『創世記』にある言葉はその一つの例だと言われています。

「動物は機械である」

最も有名なのは、17世紀のフランスの哲学者デカルトの、「動物は機械である」という言葉です。デカルトの時代には動物の生体解剖がしきりと行われ、それを正当化するためであったとも言われています(ただしデカルトが本当にそう考えていたかどうかは疑問視されています)。この「動物は機械である」という言葉は、人間の動物への残虐な(あるいは配慮に欠ける)扱いが社会的には主流の考えであり最高潮に達していたことの象徴的存在でもあると考えられています。

問題は「彼らは苦しむことができるか」

つまり、長い歴史の中での動物への扱いが人道的でなかったこと、こうしたことへの反論としてアニマルウェルフェアは発展してきました。古くは同じくギリシャ時代から、アッシジの聖フランシスの考えに代表されるようにキリスト教などに受け継がれてきた動物への配慮の考えは脈々と受け継がれてきましたが、現代のアニマルウェルフェアにつながる考えが最初に出てきたのが18世紀です。今でも使われるのはジェレミー・ベンサムという啓蒙学者の以下の言葉です。

問題は、彼らが思考できるか、ということで も、彼らが話せるか、ということでもなくて、 彼らは苦しむことができるか、ということである。

ここで、「動物が苦しむかどうか、どうやってわかるのか?」「証拠はない」という声も聞こえてきます。ところが、人間を振り返ってみると、隣にいる人が身体的にあるいは精神的に苦しんでいるかどうか、私たちはどうやってわかるのでしょうか?自分以外の人の場合、直接そう伝えられたのでない限りそれは表情やしぐさなどからの推測に過ぎません。痛い「だろうな」と直感的に感じてきたわけですが、現代では脳内の物質(例えばストレスを感じると出るコルチゾールなど)から、苦痛を感じるかどうかがある程度まで科学的に立証できるようになっています。

ストレスを受けると出る脳内物質コルチゾール

これを動物に当てはめても同じです。彼らのしぐさや動きから人間はある程度、直感的に恐怖や痛みを感じていることを推測できます。犬や猫と(理解しようとする意図をもって)一緒に暮らす人には簡単なことでしょう。家畜の場合にも、ケージ内で他の鶏をつついたりする、牛や豚が通常とは違う大きな鳴き声を出す、など多くのサインがあります。そして動物の場合にも、人間と同じく現代では代表的にはコルチゾールの分泌量などからも、彼らが「苦しんでいる」ことがわかるようになってきたのです。